最後の日まで、あなたと
らい
早朝から執事長に呼び出されたため、最愛の主人であるアルバーンが目覚める瞬間に立ち会えず、サニーはとても苛立っていた。
サニーが専属になってから1日も欠した事のないアルバーンの身支度をメイドに任せてまで呼び出したのだ。たいそうな用事なのだろうなと話を聞いてみれば、執事長はそろそろ身を固めてはどうかというくだらない話をしてくる始末。独身の己を棚に上げ、まるで人生の先輩からのアドバイスだというかのような物言いに、サニーの苛立ちは最高潮に達した。
「必要ないし、あんたに世話をされる筋合いもない」
それだけ吐き捨てると、サニーはそのまま部屋を出て足早に主人の元へ向かう。後ろから呼び止める声が聞こえるけれど、振り向くこともしなかった。
大方、サニーの見た目だけを気に入ったどこぞの娘に紹介しようという魂胆なのだろう。
18歳という結婚適齢期になったサニーは、誰もが見惚れる容姿をしている。御伽話の王子様を思わせるサラリと流れる金色の髪、芸術品のように整った美しい顔、長身で逞しくも引き締まった体つき。さらに高位貴族であるノックス家嫡男の専属執事ともなれば、商人や下位貴族の娘たちがこぞって縁談を結びたがるのは当然の事だろう。
さすがに上位貴族からの縁談はないが、見栄えの良さから愛人にしたいという話は後を絶たない。
だが、どんなに条件が良いとしても、相手のご令嬢がどれほど美しかったとしても、サニーが頷く事は絶対になかった。
サニーの人生は唯一の主人に全て捧げるのだと、アルバーンに拾われたあの日に誓ったのだから。
幼い頃、孤児院の隅で何の希望も持たず佇んでいたサニーに手を差し伸べたのがアルバーンだった。
手を差し伸べたと言っても、実際は貴族とその子息がたまたま街へ視察にき来ていて、孤児院へ訪問し、何が気に入ったのかその子息が薄汚れたサニーに飛びつく勢いで抱きついて、連れて帰ると我儘を言っただけである。
子息ことアルバーンは何度ダメだと窘められても泣きながらコアラのように全身でサニーにしがみつき、連れて帰ることができないのなら自分がここに住むとまで言い出した。
痩せ細り死んだ目をしたサニーの何を気に入ったのか誰にもわからなかったが、普段我儘を一切言わない息子がここまで必死になるのならばと、従者見習いとしてサニーが屋敷に連れ帰った。
言葉遣いも悪く文字も書けないサニーにとって、従者教育はかなり厳しいものだった。
しかし、十分過ぎる衣食住と、隙あらばサニーサニーと懐いてくる可愛いらしいアルバーンのおかげで、孤独だった孤児院での暮らしが思い出せなくなる程、毎日が楽しく幸せだった。
コンコン
「アルバーン様、戻りました」
しばらく待っていたが返事はない。
サニーは今日の予定を頭の中で確認しながら手元の懐中時計を確認する。本日、外出予定のない主人は、朝食後は自室に居るはずなのに返事がない。
こういう時、アルバーンは何かに集中していて周りのことを疎かにしているだけなので、サニーは少し間を置いてから部屋に入ることにした。
普通なら、主人の許可なく部屋に入るなどありえないことだが、サニーだけは返事がなくても入ることを許されている。それは2人の間に絶対的な信頼関係がある証拠であり、全てを委ねられているという証明だった。
許されてはいるが、サニーは必ずノックをすることにしている。
それは入室の許可をする主人の可愛い声を聞くためであって、気を遣っているだとか礼儀を重んじているわけではないのだが、屋敷の中では従者の鏡だと勝手に評価が上がっていた。
無駄な音を立てないように入室すると、執務用の席に座り、真剣な表情で手元を見つめるアルバーンが居た。よほど集中しているのか、サニーが近付いても全く気付かない。
声をかけようとしたサニーは、アルバーンが真剣に見ているモノが衝撃的過ぎて、息どころか一瞬心臓が止まったかのような錯覚に陥った。
それはどう見ても釣書であり、若いご令嬢のお見合い写真だったのだ。
「ア、アルバーン様……それは……」
震える手で釣書を指差す存在にようやく気付いたアルバーンは、きょとんとした顔でサニーと釣書を交互に見てから、数枚のそれをまとめて机の端に寄せた。
「お父様がそろそろ婚約者を決めろってさ」
「そんな!アルバーン様は先日15歳になったばかりではないですか!早過ぎるのでは!?」
「んー……僕も早いと思うんだけど。でも、お父様は僕の歳にはもうお母様と婚約していたし、16歳で成人してすぐ結婚したらしいからなぁ」
少し拗ねたように唇を尖らせるアルバーンは婚約に前向きではないようで、サニーは少しだけ冷静になった。
サニーにとって世界の中心はアルバーンであり、 8年間の従者見習い期間を乗り越えアルバーン専属執事になれた頃には、親愛は思春期を経て欲を含む愛へと変わっていた。
これから先も命尽きるまで、愛しいアルバーンを支え、いつ何時も傍にいるのは自分だけだと思っている。
つまり、サニーはアルバーンを性的な目で見ているので、アルバーンがいつかは結婚しなければならないという現実からずっと目を背け続けてきたのだ。
それが今、見たくない現実を目の前に突きつけられている。
「……あまり乗り気ではないようですね?」
あくまでも冷静に発したはずの声は少し上擦ってしまう。
そんなサニーに苦笑しながら、アルバーンはもう一度釣書を手に取った。
「僕が5歳の時にお母様が亡くなって、お父様は再婚しなかったから後継は僕だけだしさ」
ペラペラと捲る釣書はざっと見ても20枚はありそうだ。
「アルバーン様がどうしても結婚したくないのであれば、ご親戚から養子をとるのはいかがでしょう?」
「直系の息子がいるのにそれは無理だと思うよ。弟か妹がいれば……そんなことより、執事長から呼ばれたのはなんだったの?」
アルバーンは釣書を捲る手を止め、頬杖をついてサニーを見上げた。
サニーにとっては"そんなこと"では済まないほど重要なことなのだが、主人から問われればそちらを答えるしかない。
「身を固めろなどと言うくだらない話でした」
「……え?」
くだらなさを思い出してため息を吐くサニーとは逆に、今度はアルバーンが驚いて息を止めた。
「断りましたけどね。サニーは死ぬまでアルバーン様と共にあるのですから」
軽い口調でとてつもなく重い発言をしているのだが、それを聞いたアルバーンは嬉しそうに頬を染める。
「僕も……僕だってサニーが傍に居てくれればそれだけでいいんだ」
口元が緩むのか、頬杖をついた手で頬や唇をむにむにと触る姿に、この可愛らしい発言。他の誰でもなく求められているのは自分なのだという事実に、サニーはポーカーフェイスを装いながら内心では踊り出しそうなほど歓喜していた。
昔から、出会った瞬間からアルバーンはサニーを特別扱いしてきた。そしてそれは逆も然り。
はっきりと口にはしないが、それは誰から見ても明白で。
アルバーンは孤児院でサニーを見た瞬間、磁石の様に引き寄せられた。今となっては、離すものかとしがみついた事は子供っぽくて恥ずかしく思いつつ、あの時手に入れた"宝物"は今も変わらずアルバーンにとって一番大切なのだから、後悔するどころか最高の選択だったと思っている。
口には出さないが、アルバーンはサニーを魂の片割れだと思っている。でなければ、初めて会った瞬間に惹かれるわけがない。
アルバーンが時々恋する乙女のようにサニーを見つめていることも、アルバーンに向けるサニーの目に主人に対するもの以上の熱があることも、互いを含め屋敷にいる全員が気付いていた。
気付いていたとしても、身分という壁に阻まれた叶わぬ想いだと、これもお互いを含め全員がわかっている。
きっとそれは、身近に居る歳上に対する憧れによる錯覚……とサニーは自重してきた。
「ずっとお傍におりますよ。死んでもお傍におります。アルバーン様が万が一私より先に召された場合は、すぐに後を追いますので」
どれだけ特別扱いされていても、拾われた立場のサニーに許されるのは従者として尽くすことだけなのだ。
「えー、本当?何があっても、何をされても僕から離れていかない?」
くすくすと笑いながら飛び跳ねるように席を立ったアルバーンは、真正面に立って頭1つ分高い位置にあるサニーの顔を見上げた。上目遣いの角度が完璧なのは、愛する従者に可愛いと思われたい主人の努力の賜物だ。効果はばつぐんで、サニーは蕩けた顔でアルバーンを見つめた。
「もちろんです。例え貴方に毒を飲まされたとしても、それにはやむを得ない理由がある。そう思える程に、私にとって貴方は特別な方なのです」
言い終えた瞬間、ドンッという衝撃にたたらを踏んだサニーは、自分の胸元に飛び込んできたアルバーンを慌てながらもしっかりと受け止めた。
「アルバーン様!」
咎めるようなサニーの声に、顔を上げたアルバーンの瞳は不安で揺れている。
「何してもいいって言った!ねぇサニー、家のこととか今は考えないで。遠回しな言い方じゃわかんない。サニーにとって僕は特別な主人でしかないの?」
アルバーンは貴族であり、ノックス家の為に結婚をする。
そう自分に言い聞かせて、サニーは目を逸らしながらも主従関係からはみ出さぬよう耐えてきた。どれ程愛していようとも、本来ならば決して許されることはなく。いずれ後継として誰かと結婚をしてしまう彼を、サニーはひっそりと想い続けながら仕えていくつもりだった。アルバーンから一時的な錯覚だったとしても向けられた好意を胸に大切に隠して、命尽きるまで支えていくつもりだった。
しかし今、サニーを見つめるアルバーンの目からは、瞬きをしただけで涙が溢れてしまいそうだ。
泣かせたくない、悲しませたくない。それはアルバーンの父親である当主に対する裏切りとなるかもしれないけれど。サニーにとって一番大切なことは、愛しいアルバーンの幸せだけ。
そのためならば。覚悟を決める時がきたのだ。
その気持ちがさ錯覚だったとしても、先にあるのが己の破滅であったとしても。
サニーは腕の中に居る愛しい人の、決壊しそうな眦に唇を寄せた。
「愛しています。ずっと傍にいられるのならば、それだけでいいと思っていたのに……」
眦とはいえサニーからの初めてのキスに、アルバーンは幸せそうに目を細めた。
「思ってたのに?」
サニーの腕の中にいる主人は、さっきまで涙を溜めていたのに、今は楽しそうにくふくふと笑っている。
「もうあなたは俺のものだ。誰にも渡さない」
きつく抱き締めて告げられた言葉に、アルバーンも力いっぱい抱き締め返した。
「僕もサニーを愛してる。誰にも渡さないんだから!」
どちらからともなく目を合わせて、ゆっくりと顔を近づける。優しく触れ合う唇から全身に広がる幸福感に酔いしれた。
そんな幸せに浸っていたサニーだが、首に回った腕に強引に引き寄せられ、アルバーンの舌がサニーの唇をペロリと舐めたことに驚き、慌てて仰け反った。
「なにっ、何してるんだ!」
「なにってキスだよ?逃げるなんて酷い!嫌なの?」
「嫌なわけないだろ!ちがっ、とりあえず一旦離れましょう!」
むむむと眉間に皺を寄せたアルバーンは、サニーの腰が引けていることに気付いた。そして何も言わずもう一度ピッタリと抱きつくと、腹に当たる硬いブツに体を擦り付けてサニーの耳元で「えっち」と囁き息を吹きかける。
「うぐっ……!わかったでしょ!何年耐えてきたと思っているんだ!このままじゃ我慢できなくなるんです!」
「我慢しなくてもいいでしょ?今日は午後からしか予定がないんだから、時間はいっぱいあるよ?」
そう言われてしまえば抗えるわけもなく、アルバーンを抱き上げて執務室内にある仮眠室のベッドへ倒れ込む。
「アルバーン様、初めて睦み合う場所が仮眠室でいいのですか?」
「サニーに愛してもらえるなら場所なんてどこでもいいんだ。それより敬語やめて、様もイヤ」
可愛らしいお願いに、サニーはたまらずアルバーンの唇を貪った。
今まではアルバーンの就寝準備をしてから自室で休んでいたサニーだが、初めて体を重ねた日からは一度自室に戻って体を清め、翌日の準備をしてから再度アルバーンの部屋に戻り、共に朝を迎えるようしている。
元々、特別な来客や家庭教師が居る時間、そして就寝時間以外常に付き従っていたのだから、丸1日一緒に過ごすという日も増えている。
1人の時間は大切だというけれど、サニーとアルバーンにとっては2人ででいることが当たり前で、元々離れていると落ち着かなかったのに、恋人となればなおさらだ。
そんな幸せな日々に、忘れかけていた問題が浮上した。
当主と子息が穏やかに会話しながら食事をする、いつもと変わらぬ朝だった。先に食べ終えた当主がコーヒーを飲み終わると、改めてアルバーンに声をかける。
「この後私の執務室に来なさい。サニーは執事長と一緒に今後の予定を確認するように」
はい、とアルバーンが返事をしたのをきっかけに、当主は執事長と共に部屋から出ていった。
サニーは新しいコーヒーを注ぎながら、アルバーンにチラリと視線を向けた。
「やはり縁談の件でしょうか?」
「はぁ……忘れてたわけじゃないけど、最近言われなかったから油断してた」
カップに口をつけるアルバーンの眉間には皺が寄っている。
「解決策は考えてるけど、上手くいくかはわからない。お父様は僕が見合いに乗り気じゃないのはサニーにべったりなのも原因だと思ってるみたいだから、しばらく日中は離されてしまうだろうね」
ガチャ、とポットの蓋を鳴らすという執事としてあるまじき失態だが、今この部屋にはアルバーンとサニーしかいないので咎める者はいない。
「そんな……」
せっかく四六時中一緒に過ごせるようになったのに、まさか以前より離れている時間が増える可能性があるなんて、サニーにとっては地獄である。絶望感漂わせるサニーの頬にアルバーンは指を滑らせ、そのまま顎を引き寄せた。
「夜は一緒に過ごせるからさ。何があっても僕を信じて待ってて」
アルバーンの言った通り、一緒に過ごせるのは夜だけになってしまった。
お茶会や食事会など、サニーが付き従っていたものも全て別の者が担当する徹底ぶりである。日中に会えない分、夜はしっかり愛し合ってはいたが、それでも寂しさは募るばかり。
まだ数週間しか経っていないのだが、ベッドの上でアルバーンの腹に顔を埋めて抱きついているサニーは、寂しくて飼い主に縋る犬のようだ。
ふいに、柔らかな金髪を撫でていた手が止まる。
「あのね、サニー。明日お見合いすることになったよ」
「え……?え!?」
アルバーンの腹から慌てて飛び起きたサニーは、今まで見たことが無い程うろたえている。明日は大切な来客があると連絡が回ってきていたが、まさかそれがお見合い相手だとは予想もしていなかった。
「お父様から今月中に必ず1人とはお見合いするように言われたんだ。いろいろと調べて……サニー!?息をして!!」
恐れていた現実に呼吸を忘れたサニーはそのまま倒れ、気絶したまま眠ってしまった。それでもいつもの時間に起床したのは、幼い頃からしっかりと習慣付けられているからだろう。
気を失ってしまうという失態を犯したせいで、見合いの詳細は聞けぬまま。モヤモヤと晴れない気持ちを抱えながら、まだ眠る愛しい主人を起こさぬよう、静かに部屋を後にした。
「ようこそいらっしゃいました。ご案内いたします」
サニーは爽やかな笑みを浮かべ、客人を迎えた。大体の女性はこの微笑みに弱い。それをわかっていてあえて様子を見ているのだ。
先程聞いた情報によると、中位貴族の夫婦とその娘で、ご令嬢は18歳。頬を赤らめてサニーに見惚れている夫人とは違い、この令嬢はサニーに対して軽く微笑むと「よろしく」と一言かけただけで、全く興味がなさそうである。
アルバーンより歳上なのはマイナス点だが、サニーの見た目に惑わされない態度には好感が持てた。令嬢の後ろにいる侍女に至っては、挨拶以外サニーとは目を合わせようとすらしなかった。
初めてのお見合いは和やかな雰囲気だった。
もともと人当たりの良いアルバーンは相手の両親にも気に入られた様で、あとは若いもの同士でなどというありがちなセリフと共に、にこやかに客間から送り出されてしまった。
「庭を見にいきませんか?緑が美しい季節ですから」
紳士らしくエスコートをするアルバーンの後ろを、サニーと侍女がついていく。
「本当に、美しいお庭ですわね」
会話がギリギリ聞こえる距離をついていくサニーは、唇を噛み締め必死に嫉妬に燃える心を落ち着かせていた。
「……お口から血が流れていて恐ろしいので、止まるまでお嬢様に近づかないでくださいませ」
隣から冷ややかな言葉と目線を投げつけられたサニーは、ハンカチでササっと血を拭うと、これでもかと言うほどキラキラしい笑顔を侍女へ向けた。
「これは失礼。しかしご令嬢に近づく予定はございませんので」
そうですかと、どうでも良さげな侍女が視線を2人に向けたのにつられ、サニーもアルバーンの方へ視線を向ける。
そこには先程より距離が近いアルバーンとご令嬢が、こちらに聞こえない小さな声で何か囁き合っていた。
「!?!?!?」
ブチィ……と、また口から血を流すサニーに、侍女がさらに冷ややかな視線を送っていると、話を終えた2人がサニー達の方へ歩いてくる。
サニーが口から血を流している光景に焦ったアルバーンは、エスコートも忘れサニーに飛びついた。
「血がでてるよ!?どうしたの!まさか何かの病気!?」
「アルバーン様、エスコートを放棄など紳士のすることではございませんよ?」
「わぁ!ごめんなさい!」
後ろから穏やかに声をかけるご令嬢に、アルバーンは慌てて謝罪し、再度手を差し伸べた。
微笑んで軽く頷いたご令嬢は、サニーと侍女に顔を向ける。
「どうやら唇が切れているだけのご様子ですし、大丈夫でしょう。これから少し2人きりでお話しいたしますので、アルバーン様のお部屋へ参ります」
"2人きりで"という言葉に衝撃を受けて固まるサニーを置きざりに、一行はアルバーンの部屋へ向かったて行った。
「男女を2人きりにするなんて非常識すぎる!」
正気に戻ったサニーは侍女に訴えるが、侍女は心底冷めた目をしてフンと鼻で笑う。
「お嬢様に限って何か起こる事はございません。そちらのご子息が襲ったりしない限りは」
「アルバーン様が襲うなんてありえない!」
「では安心してお待ちください。それとも万が一とか思っていらっしゃる?私はお嬢様の一番の理解者ですので、お2人で話す事にきちんと意味があるとわかっておりますけれど」
暗に『お前は主人を信用できないのだな』と言われ、サニーはギリリと奥歯を噛んだ。
もちろんアルバーンの事は信じているが、問題は相手の令嬢だ。可愛い可愛いアルバーンと密室で2人きりになってしまったら、誰だって本能に負けてしまうと、己の基準をもってサニーは本気で心配していた。
ウロウロと部屋の前を歩き回るサニーに対し、侍女は扉の横にピシリと立ち微動だにしない。ただ、冷ややかな目線だけはサニーに合わせて動いていた。
1時間ほどで入室の許可がでると、サニーは素早くアルバーンの側へ移動する。テーブルを挟み向かい合わせで座っている姿に、サニーはようやく安心できたけれど、その安心もすぐに取り消されることとなった。
「これからお父様達へ報告に行くから、客間に移動しよう」
その日、とうとうアルバーンに婚約者ができてしまったのだ。
夜、絶望するサニーは、ベッドに座るアルバーンに抱きついてよしよしと頭を撫でられていた。
「あうばん……あの女と結婚するの?」
口の悪さに思わず吹き出したアルバーンを、ジトリとした目でサニーは見上げた。
「ごめんごめん。しないよ、形だけの婚約者。相手も僕とは結婚するつもりないから、利害の一致ってやつだよ」
その言葉にぱっと明るい表情になったサニーだが、婚約者としての義務は発生するという事実にまた沈んだ。
「お父様が週に1回は一緒に出かけて仲良くなれって言ってた。あのね、前にも言ったけど僕を信じて今は待っててほしい。今年中に何とかするから」
「今年中に婚約を解消するってこと?」
「僕はサニーとの未来以外要らない。けど、貴族としての義務も捨てるわけにはいかない…まだはっきりとは言えないけど、必ずするよ」
サニーは少しだけ気持ちが楽になったものの、不安な気持ちが拭えずアルバーンに抱きついて離れない。いつもはサニーがアルバーンを抱き抱えて眠るのだが、今日ばかりはアルバーンがサニーを包む様に抱きしめて眠った。
ご令嬢と週に1度は出かけると約束したものの、きちんと出かけたのは最初のひと月だけだった。
翌月はアルバーンがサニーと買い物に出かけた帰りに『今日約束の日だったの忘れてた』なんてことが1度。翌々月には2度、次は3度と増えていく。
アルバーンが不在の間、当主がご令嬢の相手をしてアルバーンの帰りを待っているらしく、さすがに回数が増えてくると従者として失格だと思われるのではないかと、サニーは不安になった。
しかし、サニーは毎朝執事長から予定を聞いており、先方の都合で予定変更になったと言われているのだから、執事長からのお咎めがあるはずもない。当のアルバーンは全く気にするそぶりもなく「お父様がお相手してくれてるし、帰ってから短い時間とはいえちゃんと顔合わせてるんだから大丈夫だよ」と笑うだけだった。
それが当たり前になっていた、ある日。
「アルバーン様、旦那様がお呼びでございます」
午後のティータイムに突然呼び出されたアルバーンは、サニーを連れて来客室に向かった。
「なぜ来客室なのでしょう?」
通常、当主からの呼び出しであれば執務室のはずである。
「来客室ってくらいだからお客様がいらしたんだろうね。僕の予想が正しければ、やっと僕達の憂が晴れるよ」
アルバーンは嬉しそうに笑っているが、サニーにはどういう意味なのかさっぱりわからなかった。
客室にはすでに当主とご令嬢が座っており、当主からはなにやら重苦しい雰囲気が漂っていた。逆に、ご令嬢はにこやかにアルバーンを迎えているものだから、なんともいえない違和感がある。
軽く挨拶をしてアルバーンが席につくと同時に、令嬢は報告があるのだと書類を差し出してきた。
「実はわたくし、妊娠しましたの」
彼女が差し出した書類というのは、検査の結果であり、間違いなく妊娠しているという証拠であった。
サニーは叫びそうになったが、必死に唇を噛みなんとかごまかす。
妊娠したという事は、そういう関係があったという事である。
お見合い後はまた常に一緒にいる生活に戻っていたし、ご令嬢に会う時は常にアルバーンの傍にはサニーが居た。週に1度(最終的には0になった)出かける日だって、しっかりサニーが付き添っていた。
だから妊娠するような行為をする時間はなかったはずだ。
「3ヶ月なんですって」
静かな部屋に、サニーがゴクリと唾を飲んだ音はやけに大きく聞こえた。
3ヶ月前といえば、お見合いとして初めて顔合わせをした頃だろうか。冷たくなる指先を握りしめちらりとアルバーンを覗き見れば、にこにこと嬉しそうに笑っていた。
そして令嬢付きのあの侍女は、令嬢を見つめ微笑んでいる。確か彼女は『私はお嬢様の一番の理解者』と言っていた。もしやそれは、サニーとアルバーンのような関係なのではないかと、サニーは感覚のなくなった指先をさらに握りしめた。
ふと、サニーはアルバーンが部屋に入る時に『憂が晴れる』と言っていた事を思い出した。アルバーンとご令嬢がお見合いをした日、お互いの関係を理解し、義務を果たすための契約をしたのかもしれない。
アルバーンの言っていた解決策というのは、早々に後継を作り仮面夫婦となり、サニーと恋人関係を続けていくということなのか。けれど、いずれ婚約を解消すると言っていたはずだ。
それに、アルバーンがサニー以外に触れることを許すとは思えない。
あの日確かに、アルバーンと令嬢が密室で2人きりになった時間はあったのだ。だが、2人きりだったのはあの一度だけ。しかも1時間にも満たない時間であったし、許可が出て入室した時はテーブルを挟んで向かい合わせに座っており、変な雰囲気もなかった。
『何があっても僕を信じて待ってて』
そうだ、信じなければ。
アルバーンはサニーに、何があっても自分を信じてくれと言ったのだ。
婚約は利害の一致であり、年内に解消すると言っていた。そしてサニー自身も言ったはずだ。アルバーンの行動にはきちんと意味があるとわかっている、と。
わかっていたはずなのに、予想外の出来事を目の当たりにした今、サニーは己の忠誠心と嫉妬で渦巻く感情を制御する術を失いそうだった。
「お父様、おめでとうございます」
「…………は?」
笑顔のアルバーンが口にした言葉の意味が、サニーには全く理解できず思わず声を出してしまった。目だけを動かしてご令嬢達を確認するが、こちらも笑顔である。
祝いの言葉をかけられた当主だけが、眉間に皺を寄せてじっとアルバーンを見つめていたが、ふぅーっと長いため息を吐き、すっと頭を下げた。
「すまない」
ただ一言、それはアルバーンに向けての謝罪の言葉だった。
状況が掴めないサニーは、当主が謝罪するという異例の事態にただただ困惑するしかなかった。
「頭を上げてよお父様。僕以外に後継ができたと言う事、めでたいことだよ!あはっ!でもこれは、お父様に借りができたということだよね?」
楽しそうに笑うアルバーンに、当主は諦めたように肩をすくめた。
「そうだな。無事産まれればその子も後継となる。まったく……全てはお前の意のままか。我が息子ながら恐ろしいよ」
「お父様、そして"お義母様"はまだ若いんだから、もっと妹弟が増えるかもね!」
先ほどまでのヒリついた空気はなくなり、みな穏やかな表情で笑い合っている。
サニーも、ようやく状況が理解できた。
と同時に、いろんな感情を抑えていた身体から完全に力が抜け、その場にへたり込んでしまう。
「サニー!」
すぐに駆けつけたアルバーンに支えられた姿に、当主は気遣わし気な視線を向けた。
「大丈夫かいサニー。殆ど欲が無いくせに、欲しいものに対しては妥協しないんだよ、この子は。息子に振り回されて大変だろうが、これからもよろしく頼むよ。……それがアルバーンの欲しかった答えだろう?」
そう言って立ち上がった当主は、これから手続きや仕事があるからと部屋を出ていった。
「サニー、心配かけてごめんね。僕はちゃんと話したかったんだけど……」
サニーの背中を撫でていたアルバーンは、まだ脱力したままのサニーをソファまで誘導すると、隣に座り腕にぴったりとくっついた。
「あらあら、アルバーン様ったら気が早すぎますわよ」
「もう!あなたが……"お義母さま"がサニーへの試練だとか言うから!」
「だって、息子になる貴方にも末長く幸せでいて欲しいのですもの。生半可な気持ちだったら任せられないわ」
子猫のように威嚇するアルバーンと穏やかに笑うご令嬢が、今回の事の顛末を話し始めた。
絶対に婚約をしなければならないが、最終的に結婚をせずに済む方法はないか。相手が自分を嫌う様に仕向けたり、浮気を誘発して婚約破棄に持ち込むことも考えた。
しかし、それではその婚約が解消になるだけで、根本的な問題として後継が必要だと言うことは変わらない。
そこでアルバーンは、サニーと話した事を思い出した。
自分以外に後継がいればいい。
弟か妹がいたらアルバーンが当主になった後、大人になった弟か妹に継いで貰えばいいのだ。問題は母が亡くなっており、父は再婚する気配がないということだった。
ならば相手を見つけるまでのこと。夜会に行けば適齢期の令嬢や未亡人を見つけられる可能性は高いが、アルバーンはまだ成人しておらず夜会に参加できない。悩んだ結果、自分に送られてきた釣書を頼りに、お茶会など自身が参加できる場所で探すことにしたのだ。
それとなく執事長に父親の再婚についてどう思うか尋ねてみると、アルバーンよりやる気を出してしまった。妻に先立たれた後、たった一人で家を、家族を守ってきた当主に、少しでも支え癒してくれる相手がいればと常々思っていたらしい。
ご立派になりましたねと泣かれてしまったが……アルバーン自身の為に父を犠牲にする事を隠している故、少々罪悪感があるものの、誰かを不幸にする訳ではないと割り切ることにした。
アルバーンの縁談相手の令嬢となると、父の相手には若過ぎる。令嬢達の親戚に丁度良い年齢の女性がいないかと、執事と共にありとあらゆるコネを使い探したが、それもなかなか見つからない。
悩んでいた最中開かれたノックス家のお茶会で、凛とした美しいご令嬢がチラチラと視線を彷徨わせているのを、アルバーンは見逃さなかった。
視線の先には父がおり、彼女の視線に気付いた父はほんの少し口元を緩めているではないか。可能性を感じたアルバーンだが、直接父との縁談にもっていくよりも、遠回りをした方が望む結果に辿り着けると判断した。
「それですぐに"お義母様"と僕の縁談をお父様にお願いしたんだ」
縁談に乗り気でなかった息子からの願いに、父はほんの少し眉を顰めたが、すぐに了承し場を設けてくれた。
「あの時のお父様ったら、なんであの子なんだーって顔に出てたから可笑しくって」
すぐにセッティングされたお見合い当日、あの庭でアルバーンはご令嬢にこう告げた。
『お互いの幸せのために、協力しませんか?』
「アルバーン様が不在の約束の日にノックス家に伺い、仲を深めておりましたの。事前に私の視線に対する反応も聞いておりましたので、積極的にお誘い致しましたわ」
あの頃の当主、は女郎蜘蛛に絡め取られる蝶のようだったと後に執事は語る。
「これでうまくいかなかったら、もう力技でお父様が再婚するまで僕はしないを貫き通すつもりだったよ」
だってサニーとの未来以外要らないからと、アルバーンはあの日と変わらぬ言葉を告げる。
「……本当は少し不安だったんだ。あうばんが俺以外に触れたんじゃないかって」
絶対に信じるつもりだったのに、サニーはほんの少しだけ揺らいでしまった己が恥ずかしかった。
ねぇ、と震える声に顔を向ければ、微かに震えるアルバーンがじっとサニーを見つめている。
「何も言わなかった僕が悪いんだ。これで信じてもらえなくなったとしても仕方ないとさえ思ったよ」
大きな目からポロリと流れた涙に、サニーは慌てて手を伸ばす。
「呆れてない?嫌いになってない?」
涙を拭おうとしていた手は、震えるアルバーンの後ろへ周り、そのままギュッと抱きしめた。
「呆れる訳ない、嫌いになんかなるわけないだろ!」
パタンと小さな音がして、部屋には抱きしめ合う二人だけが残された。
幼子の様に声をあげて泣くアルバーンを抱きしめるサニーの目からも、静かに雫が溢れていた。
しんしんと雪が降る中、窓から見える街や城は夜中だというのにたくさんの光が灯っている。城では貴族が夜会を開き、街では人々が一年の終わりと始まりを祝うのだ。
街から少し離れた場所にあるノックス家は、大きな灯りを消し、屋敷中がほんのりとしたキャンドルの光に包まれていた。
アルバーンの部屋ではキャンドルの控えめな灯りに、ベッドの上に座る2人の影が揺れている。
「お義母様、夜会に行って大丈夫なの?」
「安定期に入ったから挨拶だけして帰ってくるって聞いたよ」
2人はぴたりと寄り添いながら、静かな部屋で窓の外を眺めている。
「年内に解決してよかった。解決どころか俺たちの事を認めてもらえるなんて思ってもみなかった」
少し低い位置にある可愛らしいつむじにキスを落としながら、サニーはこの怒涛の半年を思い出していた。
ご令嬢こと奥様は、歳上にしか興味のない所謂おじ専だった。そして『お嬢様の一番の理解者』と言っていた侍女は枯れ専だとか。
「執事長とあの侍女さん良い感じらしいし、みーんなが幸せな感じじゃない?」
楽しそうにアルバーンは笑っている。が、サニーはあのメイドは自分と同類だと勘違いしていたので微妙な顔だ。
「成人したら本格的に家の為に覚悟を決めないといけなかったから、ちょっと焦ったけど結果オーライだね!」
「俺にはどうする事もできなかったから、あうばんが本気で俺との未来のために頑張ってくれたの、嬉しかった」
その言葉を聞いたアルバーンは、満足気に頷くとサニーの胸元に擦り寄った。
「今日みたいに一年の終わりも、年が明ける瞬間も一緒にいられる。これからずーっと一緒にいられるんだよ」
夢みたい、と呟きながらアルバーンは大きなあくびをした。
「あうばん眠そうだね、そろそろ寝る?」
「やだ!2人で年越しして、一緒に新年を祝うだもん……」
必死に目を開けようとするアルバーンだが、普段はこんな時間まで起きていることがないので、そろそろ限界だった。
ぐずるアルバーンの肩をサニーの手がトントンと優しく叩けば、ゆっくりと体から力が抜けていく。
「さに、しあわせになろぉね。ずっといっしょだよ……」
可愛らしい言葉を最後に、そのまま寝息を立て始めたアルバーン。
「すでに幸せだけど……永遠の誓いみたいだね、あうばん。病める時も健やかなる時も、ずっと一緒にいるよ」
最期の日まで、あなたと。